2017年10月31日、米国MLBのヒューストン・アストロズがロサンゼルス・ドジャースとの第7戦を制し初のワールドシリーズ優勝を決めた時、トレイ・ヒルマンコーチはその試合をテキサス州オースティンの自宅から見守っていました。
それはドジャース (2011-2013) とアストロズ (2015-2016) の両チームで時を過ごしたコーチにとってシュールな瞬間となりました。なぜなら予想していなかった事が1年前になければ、ホセ・アルトゥーブ選手、アレックス・ブレグマン選手、カルロス・コレア選手、ジョージ・スプリンガー選手、そして彼の上司だったA.J.ヒンチ監督と共にロサンゼルスにいて、喜びを分かち合っていたはずだからです。
しかし、ヒルマンコーチは、その代わりに韓国の仁川に拠点を置くKBOリーグのプロチーム、SKワイバーンズの監督として初めてのオフシーズンを楽しんでいました。彼の立場にいたなら、この逃した状況に落胆し、葛藤していたかもしれません。しかし、世界の裏側とも言える場所でのユニークな機会を追うため、彼は驚くほどの確信を持って、アストロズとの契約延長をしない決断をしたのです。
「他に言いようがない。」と語り、「それは神のなさる事で、神の計画でした。」とヒルマンコーチは振り返ります。
情熱、祈り、計画
13歳の時に人生をキリストに委ねて以来、ヒルマンコーチは、神が自分の人生のために計画を持っているという信念をしっかりと持ち続けてきました。その当時の計画とは,音楽と野球という2つの情熱を追求することでした。
ヒルマンコーチは、テキサス州アーリントンでスター選手として注目され始めると同時に,有能な歌手兼ミュージシャン(ギターとドラム)に成長します。そして、高校のキャンパスで行われていたFCAハドルの賛美を担当し、テキサス大学アーリントン校でプレーしている間もその役割を続けていました。また、フォートワース近郊にあるテキサスクリスチャン大学のFCAミーティングでも、自分の才能を披露するように頼まれることもありました。
しかし、1985年のMLBドラフトで選ばれなかったものの、ヒルマンコーチは心の中で、野球が将来の歩みになると確信していました。
「ドラフト外となった後の祈りの時間に、プロ野球選手としての名誉を祝福してくださるかどうかを神に尋ねたことを覚えています。私は神に、野球を通して神の栄光を表すためにできることは何でもすると祈ったのです。」
ヒルマンコーチの祈りは応えられ、クリーブランド・インディアンスとフリーエージェント契約をしました。その後、3年間クラブのマイナーリーグを転々とします。しかし、162試合に出場した後に、野球を通して神に仕えるために神が用意された計画は、想定したものと異なる事が明白になってきたのです。
翌シーズンからヒルマンコーチは、スカウトとしてインディアンスに残りました。その後、ヤンキースのマイナーリーグの監督として12年間指導にあたり、ヤンキースの組織の中でランクを上げていきます。ヒルマンコーチの影響はすぐに現れます。彼は1990年にAレベル(ショートシーズン:米国プロ野球の6軍に相当)のオネオンタ・ヤンキースをニューヨーク・ペングリーグの優勝に導きました。その後、フロリダ州リーグのAレベル(上級:4軍)タンパ・ヤンキースとAAAコロンバス・クリッパーズ(2軍)とあらゆるレベルで過ごしてきました。
その期間中に、様々な出会いもあります。ヒルマンコーチは、ヤンキースの「コア4 」と称されるデレク・ジーター選手、アンディ・ペティット投手、ホルヘ・ポサダ選手、そしてマリアーノ・リベラ投手たちと仕事をしてきました。しかし、それ以上に重要だったのは、北海道日本ハムファイターズの小島卓社長や島田敏野球部長との関係で、ファイターズがヤンキースの秋季リーグプログラムに選手を派遣するという契約を結んだことだったのです。
ヒルマンコーチは、2002年に選手育成ディレクターとしてテキサス・レンジャーズに入団するためにヤンキースを去りましたが、小島社長と島田部長は北海道日本ハムファイターズの監督への招聘を考えていたのです。
ヒルマンコーチはこう語りました。
「予想もしていなかったし、計画もしていなかった。でも、神がドアを開けてくださったという安心感があったのです。」
つづく
(FCA in Action 2019年8月25日掲載記事より)