「そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。 」ヨハネによる福音書 1:14
これまで、栄光を「他者から与えられるもの」、また「充実感を得るために追い求めるもの」として語ってきました。しかし、栄光にはもう一つ、さらに壮大な意味があります。それは、神という存在の無限の本質を指しているのです。
聖書には、神の栄光がさまざまな方法で記されています。しかし、イエス(人となられた神)が地上に来られ、私たちを自らの栄光を追い求めることの重圧から、また罪と死の呪いから救ってくださるまで、世界はその真の栄光を実際に垣間見ることはできませんでした。
アダムとエバが神に対して罪を犯してから約4000年後、人類を贖い、創造主との正しい関係を回復させるための神のご計画が展開されました。それは、神の御子イエスが赤ん坊としてこの地に来られたときに始まりました(マタイ 1–2)。イエスは30年間ナザレで静かに過ごされ、その後、神によって定められた公のミニストリーを開始されました。
ヨハネによる福音書 1:18
ヨハネの福音書1章1~18節に記されているように、イエスは生きて呼吸する神の言葉そのものであり、奇跡を行い、霊的な教えを語り、新しい御国の到来を告げることで、父なる神の栄光をこの世に示されました。
多くの人々は、イエスが神ご自身であり、神の栄光を啓示し、世界を救うために遣わされたメシアであることを理解できませんでした。しかし、その啓示を悟った人々の人生は、永遠に変えられたのです。
自分の栄光を求めることは、大きな重圧を伴います。そして、自分の名前が称賛されるのを聞いても、思ったほど満たされるものではありません。これは特にスポーツの世界で顕著に表れます。チャンピオンシップに到達することができても、あと一歩届かなかったときには落胆するかもしれません。すべてを勝ち取ったとしても、その高揚感は翌朝には消えてしまうでしょう。こうして、終わりのない個々の目標を追い求める無限のサイクルに陥ってしまいます。
しかし、イエスの生き方を見ると、それとはまったく対照的です。イエスは、その神の力に対する賞賛と栄光を求めることもできたはずですが、仕える者として、世の罪のために犠牲となるために来られました。
マタイによる福音書 20:28
イエスを通して神の栄光が現されるのを見るとき、私たちは自分の栄光を追い求める重荷を降ろし、自分のためではなく、神の栄光のために生きることができるのです。
もし、あなたが自分の栄光を追い求めることに疲れを感じているなら、次のことを覚えておいてください。
ヘブル人への手紙 1:3a
神の栄光があなたに啓示されるとき、あなたは自分の栄光を追い求めるのではなく、神の栄光を映し出す者へと変えられるでしょう。
ハドルや静かな時間の中で詩篇104編を読み、神の栄光を際立たせる驚くべき御業に注目してください。イエスが、その同じ神でありながら肉体を持って来られたこと、そしてそのキリストの啓示が、競争の中で自分の栄光を追い求めるあなたの願望にどのような影響を与えるかを考えてみましょう。
ヨハネによる福音書 1:14
ヨハネによる福音書 1:1-18
マタイによる福音書 20:28
ヘブル人への手紙 1:3