スポーツ選手にとって人生は日常で過ごした時間や体験ではなく、競技やそこに携わってきた時間や体験に置き換えられて捉えられてきました。スポーツ選手としての人生を追求するのは、それが自分の中で生まれつきのものと感じているから、あるいは、ありがたくも偶然出会った甘い驚きだと感じているからです。そして、この人生に敬意を表して、できる限り自分自身を捧げるのです。
長い夜の動画撮影、早朝のウェイトリフティング、チームとしての仲間意識の構築など、人生とはスキルを磨き、奨学金や次のレベル、自己ベストに照準を合わせることに専念することを意味します。
スポーツ選手として、私たちはフィールドでの生活に適しています。しかし、私たちの永遠の目標はどこにあるのでしょうか?神がおっしゃる豊かな人生を追い求めながら、どうすれば全力を尽くすことができるのでしょうか。
私たちは、自分の心の動機に神を取り込みます。全力で人生を追い求めます。追い求めて走ります。私たちはそれを意図的に行います。
次の四半期では、「人生を追求する」とはどういうことかを探っていきます。次の3ヶ月間は、それぞれのテーマがつながって、神と私たちの人生に対する神の偉大な呼びかけを意図的に追求することになります。
人生とは?
人生とは、私たち生きて経験していることの集合体です。信仰的な言い方をするなら、永遠の命。すなわちイエス・キリストの十字架の死と復活による罪の贖いと父なる神との交わりの回復です。
私たちが生まれる前に、神は私たちが生きる日数を設定されました。それをどのように生きるかは、私たちが心に決めた生き方によって決まります。
人生には長さもあれば、質もあります。この世に何年いるかはわからないが、与えられた時間をいかに大切にするかはわかるでしょう。
しかし、キリスト・イエスが与えられた豊かで満足のいく人生を、私たちは本当に味わっているでしょうか?
私たちの敵は、私たちが神の最善の人生を経験することを邪魔することしか考えていません。その敵は、私たちが豊かな人生を送れないように、私たちの心をそらし、鈍らせようとします。しかし、イエスは、神が私たちを誕生させたときに意図されたもの、すなわち、人間関係、無条件の愛、そして深みのある生き生きとした人生を私たちに提供するために来られました。(ヨハネの福音書10章10節)
心を開く
イエスにあって豊かで満足のいく人生を送るための最初のステップは、心を開いて、あなたが隠そうとしている闇の部分にイエスが光を当ててくださるようにすることです。イエスが手放せとおっしゃるのに、あなたは何か抱えていませんか?イエスが引き返すように言われているのに、あなたはどこに向かっているのでしょうか?
心を開いて、自分のすべての部分をイエスに見てもらうことは、傷つきやすく、しばしば居心地の悪いものです。私たちは、自分が間違っているとは思いたくありませんが、正直に言うと、自分が向かっている方向が好きではないのかもしれません。
私たちの心は、多くのことを求める気持ちがあり、そのリズムは消えません。そして、そのリズムが神の最善に向かって進むようにすればするほど、他の人が興味を持ち、私たちが生きている方についてもっと知りたいと思うような生き方ができるようになります。究極の癒し手である神に任せて、私たちを光の中へと導いてもらいませんか?
充実した人生を送るためには、次の3つの分野で心を開く必要があります。
神に対して
神は私たちのすべてをご存知です。私たちが自分自身を知るよりも、神は私たちをよく知っておられます。しかし、神は、あなたが今起こっている深い事柄を神様と分かち合いたいと思うような、つながりのある場所にいたいのです。もし私たちが神に心を開くという最初のステップを踏むことができなければ、私たちの信仰は本物ではないでしょう。もし私たちがコーチとして失敗を恐れたり、自分とチームメイトを比較することに忙殺されていたら、神が私たちをどのように創造したのか、神の真実を私たちの心に語らせるところまでたどり着けないでしょう。
私たちがイエスに心を開ければ開くほど、その関係は深くなり、活気に満ちた双方向の交わりが実現するのです。
(ヨハネの黙示録3:20)
自分に対して
神の前で正直になるのは良いことです。しかし、持続的な内面の変化を経験するためには、自分自身に対しても正直になる必要があります。変革を起こす時に出発点が必要です。そのためにまず心をさらけ出して、自分一人では何もできないことを認めることから始めましょう。誰も見ていないからといって、トレーニングに手を抜いてませんか?あるいは、仕事でグレーゾーンに踏み込んでしまうことはありませんか?
自分の心の動きや、押し殺したり隠そうとしていた葛藤の部分について、神に向けて正直に話してみましょう。
(詩篇139篇23-24節)
希望に対して
多くの場合、私たちは自分自身が最大の敵となり、神が与えてくださっている生きる喜びを経験できなくなっています。私たちが神と自分に心を開くとき、心の美しくない部分を引き出すだけでなく、私たちに喜びと興奮を与える部分をも引き出すことになります。私たちは、聖霊を通して私たち自身が良いものに変えられることを希望である神に期待するように造られたのです。あなたは何を望みますか?チームを作ることでしょうか、それともチームに永遠なる良い影響を与えることでしょうか。キャリアの中で300勝を達成したいのでしょうか、それとも御国のために300人の人生を勝ち取りたいのでしょうか?
それは、神が私たちの与える方、支える方であることを示す心の変化であり、希望とインパクトに満ちた人生へ私たちがたどり着くために十分な恵みを与えてくれるのです。(ローマ人への手紙15章13節)
私たちには深い目的と意味があり、神は私たちが神の自由と信頼の中で生きることを望まれます。心を神に合わせれば合わせるほど、神はイエスの心を私たちに吹き込み、私たちが切望する人生の充実をもたらしてくれます。信仰の固いこぶしを広げると、神は新鮮で個人的な方法で私たちにご自身を明らかにし、私たちの心を、御言葉を聞くだけでなく、暗くなり続ける世界に光をもたらす実行者へと変化させるのです。
考えてみてください:あなたはどの部分で心を閉じていましたか?どうしたら神様に心を開くことができますか?
実践しましょう:正直になりましょう。自分の心を探って、行くべきでないところに導いているものがないかどうかを確認してください。